2020/1/11 寺山修司と青
信長貴富作曲・寺山修司作詞《思い出すために》(2007)の各曲の詩を眺める。
私は感受性に乏しく、詩や小説が苦手である。しかし、寺山の詩から、いくらか思いついて考えたことがあるので記そうと思う。
※あくまで私の解釈、考察である。
青色
『思い出すために』曲集に現れる詩を概観した際の第一印象は「青!」である。
というのも、歌詞にいくらか「青」が出てくるというのもあるが、私にとって、詩の全体がロマンティック・ブルーの具現のように感ぜられた。
実は、現在ある授業のレポート課題で「ドイツ・ロマン主義と氷海」というのを書こうとしており、いくらか「青」について調べている。
小林康夫『青の美術史』という本では、青というのはいつの時代であっても「遠い」色であると述べられている。(現代においてはその意識は薄いように思われるのだが)
特にドイツ・ロマン主義において青は特別な色であり、青を通して生命の高い理想を見、同時に死を見ていた。つまり、青に生命の有限性の美を感じ取っていたのである。(細かいことはまた上のレポートが完成した段階で載せようと思う)
寺山にとっても青は重要な色だったようで、かなり多くの詩に「青」という語が登場する。
中でも面白いのは、『寺山修司少女詩集』人形あそび、水妖記4の6番の詩だ。(以下)
さみしいときは 青 という字を書いていると落着くのです
青 青 青 青 青 青 青 青 青
青 青 青 青 青 青 青 青 青
このようなことを契機として「寺山と青」について考えてみたい。
少女詩集と青
詩が苦手ではあるものの、実際に少女詩集を手に取ってみる。
素人ながらに寺山のアングラな感じを形式面においても語のセンスにおいても感じることができた。
散文も韻文もあり、全体の印象としては日記、手記のようである。(詩集がそもそもそういうものなのだろうか)
ひとつひとつは体系性を拒否しながらも、チャプターや一冊の本になると奇妙にもまとまっている。カントのいう目的なき合目的性を体現しているようだ。
さて、曲集『思い出すために』に現れる詩が『寺山修司少女詩集』のどのチャプターに属するかいかに示す。(「種子」はべつの詩集であるため今回は省く。)
※調べが甘く、詩群を指す名称がわからなかったので、第◯章とした。また、以後第◯章の「」という詩を示すものとして、◯・「」という書き方をする。
IIてがみ、IVぼくが死んでも→第一章「海」
V思い出すために、Iかなしみ、III世界の一番遠い土地へ→第7章「愛する」
チャプターは全部で9つある。以下だ。
海、ぼくの作ったマザーグース、猫、ぼくが男の子だった頃、悪魔の童謡、人形あそび、愛する、花詩集、時には母のない子のように
曲に採用されているのは「海」と「愛する」である。個人的には「悪魔の童謡」がアングラ感満載で好きなのだが・・・。(是非手に取ってみてね!)
それはさておき、「てがみ」「ぼくが死んでも」は「海」という詩群から採られている。
さらに、「かなしみ」や「世界の一番遠い土地へ」、「思い出すために」においても、「私は だまって海をみている」「涙ぐむ」「セーヌ川」といった海そのものや、それにまつわるワードが登場する。
※涙と海に何か関連が?と思うかもしれないが、詩集には海と涙を関連付けたものがいくつか存在する。cf)海「海水と涙の比較研究」など。ゆえに、寺山の詩を考えるうえでは涙と海を関連付けてもよいだろう。
そして、言うまでもなく海は青い。
つまり、「青」及びそれに関連するワード群は、《思い出すために》という曲集の「キーワード」なのではないだろうか。
フリードリヒ《海辺の修道士》
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)《海辺の僧侶》
1808-1810 油彩、カンバス 旧国立美術館 (ドイツ)収蔵
先程も少し触れたが、愛する・「かなしみ」には以下のフレーズがある。
私は
だまって海をみている
これを目にした時、私には上の絵が思い出されたのである。
フリードリヒはドイツ・ロマン主義絵画を代表する画家である。
一番最初に「青」のところでも述べたように、ドイツ・ロマン主義において「青」は重要な意味を持っていた。
上の絵では僧侶が聖なる海、空の青をじっと見ている。しかし、全体の雰囲気は物悲しく映る。
広大な自然と矮小な人間が対比されているようだ。
これは言い換えれば、無限性と有限性の対比である。
ここで、寺山の詩に戻る。
海・「かなしくなったときは」を以下に引用する。
かなしくなったときは
海を見にゆく古本屋のかえりも
海を見にゆくあなたが病気なら
海を見にゆくこころ貧しい朝も
海を見にゆくああ 海よ
大きな肩とひろい胸よどんなつらい朝も
どんなむごい夜も
いつかは終る人生はいつか終るが
海だけは終わらないのだかなしくなったときは
海を見にゆく一人ぼっちの夜も
海を見にゆく
この詩も、人生の有限性と海の無限性の対比がなされている。
また、この詩を読んだあとでは「かなしみ」の印象も変わってくることと思う。
「かなしみ」では理想である芸術の中の世界と悲しい現実の世界が対比されている。対比することで現実がよりいっそう際立ち、悲しくなった寺山は海を見に行くのである。